つのだひでお(角田 秀穂)|衆議院議員|公明党
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「春の到来は『混沌』から『宇宙』が創成されたように、また『黄金時代』が実現されたように思われる」(ソーロー)

「混沌の世界から統一の世界に入り、夢幻の境地から現実の明確に覚めるところに、官能の形象があらわになって来る。冬の沈黙から表現へと移った自然の姿態は、五月の新緑というものにおいて最も豊かな、至醇な自己表現となってあらわれる。それが如何なるものを告白しているか、また如何なるものの象徴であるかは、ただ詩人や予言者の解釈に任せて、自然はその進行の刻々に表現されるべきものについてのみ忙しい」(田部重治)

自然の調和をかき乱すだけの力を持った唯一の存在。それが人間なのだろう。

久しぶり(正確に数えたら23年ぶり)に足尾を訪れる機会を得た。前回利用した足尾線は3セクの「わたらせ渓谷鉄道」になり、足尾町そのものも日光市との合併で消滅していた。23年の歳月は色々なものを変えた。ただ、久蔵、仁田元の支川が松木川に出会うあたりに立ったときに目に飛び込んでくる四方に広がる禿げ山の光景だけは相変わらずで、むしろ懐かしさを覚えた。

銅の製錬過程で発生する亜硫酸ガスによる煙害が製錬所上流地域の旧松木村などで問題になり始めたのが明治16年(1883年)頃。その後、重要な現金収入源であった養蚕業が廃業に追い込まれるなどして、旧松木村を含め上流域の村は全て廃墟と化した。

営林署の資料によると、煙害により荒廃した山腹の面積は1,313ヘクタール、東京の山手線で囲まれる区域の面積のおよそ2倍。荒廃した山腹は不安定な土砂を大量に生み出し、洪水時には下流域の広い範囲に甚大な被害をもたらす。このため、砂防と植林を中心とする治山事業は明治の時代から今に至るまで100年以上にわたり(税金を投入して)続けられてきた。

いまも最新の土木技術を駆使して緑を復元するための取り組みが行なわれているが、その現場を目の当たりにするにつけ、一度失われた自然を回復することの難しさというか、一度壊した自然をもとに戻すことは人間にはできない、ということを強く認識させられる。

現地に設置された複数の案内板には、山の荒廃は製錬所の煙害とともに山火事も原因だと書いている。野火説は足尾銅山側が山腹荒廃の大きな原因として強く主張したものだ。確かにこの地域では以前から山焼きが行なわれており、明治20年の山焼きの際には強風により広い範囲が「焼失」したとの記録がある。

しかし、単に山火事の被害だけで100年以上も回復できないダメージを自然が負うものかどうか。足尾は日本の公害の原点といわれるが、真の原因は何なのか、責任を負うべきものは誰なのか、色々な意味で未だケリのついていないことが多いのではないかと思った。ケリをつけられないということは、人間は再び同じ同じ過ちを起こす可能性があるということだ。

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「診療行為などの公定価格で医療機関の収入となる診療報酬が、4月から改定される。(中略)公明党が強く要望していた児童の治療用眼鏡と、コンタクトレンズにも保険が適用され、療養費が支給されるようになる。」(3月20日付公明新聞)

眼鏡やコンタクトレンズを用いて矯正しても、十分な視力が得られない弱視の原因は、大きく2つに分けられ、1つは先天性の白内障などの重い目の病気によるもの、そしてもう1つは視力の発達する生後2カ月から3カ月ぐらいから3歳ごろまでの幼児期に、強度の屈折異常があり、正常な目のみが働くようになり、視力が上がらなかったもので、後者の原因の場合、屈折異常が原因の場合には、早い時期に適切な治療を施せば、視力の改善を望むことができる。

弱視の治療法としては、片方の目のみが特に視力が悪い場合には、健全な方の目をアイパッチと呼ばれる大きなばんそうこうのようなもので遮へいしたり、よい方の目にわざと見えにくくするための目薬を点眼し、悪い方の目の視力の発達を促すという方法、さらには注射であるとか、手術による治療法が用いられているが、何と言っても眼鏡による屈折矯正が基本となる。視力の発達は個人差が大きいが、一般的には8歳から10歳程度でとまると考えられており、治療開始の時期は早ければ早いほど効果が期待できると言われている。

低年齢の段階で、眼鏡で矯正して網膜にピントをきちんと合わせ、鮮明な像を脳に送り、視機能の発達を促すことで矯正視力が1.0程度まで改善した事例は数多く報告されている。

このように、斜視を含めた弱視は、視力の発達がとまる前のできるだけ早期の段階で、眼鏡による矯正を基本に治療を行えば、改善が期待できるにもかかわらず、治療段階における弱視・斜視矯正眼鏡に対しては医療保険の適用がないため、全額自己負担で行わなければならないことから、弱視の子供を持つ保護者は大きな経済的な負担を強いらる現実があった。

この問題については私自身、数年前に弱視の子どもさんをもつ方から経済的負担の軽減を図って欲しいとの要望を受けて、調べてみたが、40年以上前に厚生省(当時)が出した通達がネックになっており、保険適用は難しいものと思い込んでいた。それがこの1年余りの間に事態が大きく動き、ついに治療用眼鏡、コンタクトレンズに医療保険が適用される日が訪れた。

しかし、治療用眼鏡への保険適用という、考えてみれば当たり前のことが行なわれずに流れた40年の歳月はあまりにも長過ぎた。この間、この問題に取り組み続けた関係者のご苦労・ご努力にはただただ頭が下がる想いを抱くと同時に、こうした制度の谷間に置かれた人々の声を地方から国へと届け、一日も早い改善に汗を流すことが私たちの仕事なのだということを私自身、強い反省の念とともに改めて痛感させられた事件だった。

そもそも、これまでなぜ治療に用いる弱視や斜視の矯正眼鏡に保険が適用されなっかたのか。眼鏡に対する療養費の支給に関し、昭和39年11月26日付で当時の厚生省が出した通達が生き続けていたからだ。

この通達では、眼鏡の取り扱いについて、疾病または負傷の治療のために必要な用具、補装具は支給されることになっているが、眼鏡はこのような用具とは性質を異にしているので、支給の対象から外されている。

医療保険における眼鏡の支給は認められないが、身体障害者福祉法第20条の規定に基づく補装具としての眼鏡支給が考えられるという内容。つまり眼鏡は治療のために必要な用具ではないと厚生省が明確に示している。その指導を保険者が忠実に守り、支給を拒み続けていたことが最大の理由となっていた。

国が保険者に対してこのような指導をする背景には、もともと日本人は世界的に見ても、近視などで眼鏡を使用する人の割合が多く、こうした近視や乱視の矯正眼鏡と区別がつきにくいという考えがあったようだ。ちなみに、国の通達の中で、身体障害者福祉法の規定に基づく補装具としての眼鏡支給が認められるのは、両眼の矯正視力が0.1以下のもの、一眼の視力が0.02以下のものなど、症状が固定したものに限られ、適切な治療を施せば改善が期待できる子供たちの治療のことは全く考慮がされていない。

しかしながら、昨年(05年)に入って弱視・斜視の子どものために矯正用眼鏡やアイパッチに対する保険適用を求める運動を地道に続けてきた「アイパッチクラブ」の陳情を受け、浜四津代表代行が国会で取り上げて以降、事態は大きく動くようになる。

以下は公明新聞に掲載された記事。

『05年4月)28日の参院厚生労働委員会で質問に立った公明党の浜四津敏子代表代行は、矯正しても正常な視力が出ない弱視や、斜視などに対して、治療上必要な特殊な眼鏡や、視力発達に必要な装具であるアイパッチなどを保険給付の対象とするよう求めた。西博義厚労副大臣(公明党)は「中医協のもとにある専門組織で具体的に議論する」と述べた。』

その後の経緯は、

・(05年)6月17日付けで日本眼科社会保険会議、日本視能訓練士協会から弱視用眼鏡の療養給付に関する医療技術評価希望書が提出される。

・(05年)12月16日付けで中医協診療報酬調査専門組織医療技術評価分科会が一次評価の結果、「小児の弱視、斜視治療のための眼鏡およびコンタクトレンズ」を引き続き検討する技術とする中間報告。

・(06年)2月3日付けで中医協診療報酬調査専門組織医療技術評価分科会が、「小児の弱視、斜視治療のための眼鏡およびコンタクトレンズ」を保険適用する優先度が高いと考えられる新規技術とする報告。

この報告を踏まえ、「小児の弱視、斜視治療のための眼鏡およびコンタクトレンズ」が保険適用と決まった。

この間、一部の保険者においては治療用の眼鏡に対して保険適用を認めているところも増えていることから、加入する保険によって著しい不公平が生じている現状があった。保険者が眼鏡の保険適用を認めていれば、現状では、3歳未満は2割の自己負担、3歳以上は3割の自己負担分を支払えば済む。これに加えて都道府県・市町村が独自に行なっている乳幼児医療費助成の恩恵を受けることもできる。

船橋においては4歳未満であれば窓口負担200円で眼鏡をつくることが可能だ。事実、船橋においても矯正用眼鏡も保険適用としている保険者から、乳幼児医療費の助成申請が上がっていた。

国が保険適用を認めたことにより、こうした不公平もようやく解消される。それはそれでよいことなのだが、制度の谷間はまだまだある。私自身、こうした谷間を埋めることに最優先で取り組んでゆきたいと決意を新たにしている。

(参考=この問題を議会で取り上げた議事録)昨年(05年)9月議会

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市議会における来年度予算の審議も大詰めを迎えている。市民を代表する議員として様々な声を聞き、その声をもとに議会の内外にわたって必要性の高い施策の実現を要望するが、ほとんどの場合、行政側は「必要性は分かるが、財政状況が厳しいために実現は難しい」という回答をする。

「厳しい財政」を盾に議員側の要求の実現には否定的な反応をすることがほとんどだ。

私が議員として仕事をさせていただくようになって以来このかた、行政側から「財政が厳しい」という言葉は耳にタコができるくらい聞いたが、「財政状況が好転した」という言葉はついぞ聞いたことがない。

一体、船橋の財政は他の都市と比較してどのような状況におかれているのか?三位一体改革の渦中で、この先どうなるか不透明なところも大きいが、とりあえず平成16年度決算ベースにおける船橋の財政状況の他都市との比較を試みたのが冒頭のグラフ。

自治体の財政状況を示す尺度としては色々なものがあるが、そのうち代表的な指標とされている経常収支比率を船橋と同規模の中核市(人口50万人以上)について比較したものだ。

「経常収支比率」は、市税などの経常的な一般財源が、人件費などの経常的な経費にどの程度充てられているかを表すもので。70〜80%が標準的とされ、この比率が高くなるほど投資的事業や新たな施策を実施する余力がなくなる。すなわちこの比率が低いほど市民ニーズに応える余力があるということ。

家計に例えれば、収入に対して住宅ローンやら光熱費やら食費、教育費など黙っていても必ず出てゆく支出がどの程度の割合を占めているかを示す指標で、この数値が高いほど新たにカルチャースクールに通ったり、旅行に出かけたりといったことを企画する余裕がないということになる。

船橋市の場合、経常収支比率をみるかぎり同規模の自治体の中ではそうした余裕は少ない方といえる。ちなみに、今回比較した都市も含めた中核市全体(35市)の平均86.3%をも上回っている。余裕がない中で何か新しいことをやったり、買い物をしようとすれば、「貯金を取り崩す」か「借金をする」しかないが、では船橋の「貯金」や「借金」の状況はどうなのか?

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上のグラフは市民一人当たりどれだけの貯金(積立金)があるのか、下のグラフは市民一人当たりどれだけ借金(地方債)があるのかを同規模の中核市で比較したもの。

自治体は不況によって税収が落ち込んだり、災害の発生で急な支出が生じた場合に備えて、法律に基づいて財政状況の良い年度に財政調整基金などに積立て(貯金)を行なっており、貯金が多ければ不況で収入が多少落ち込んでも安定的な財政運営ができるということになる。船橋の場合、貯金は少ない。景気の回復が遅れているため、現時点での貯金はさらに減っている。

一方の借金の方は、一人当たりの地方債残高で見た場合、船橋は少ない。ただしこれは一般会計の借金だけをみた場合のことであり、実はこのほかにも返さなければいけない借金はたくさんある。例えば、船橋が特に立ち後れている下水道事業特別会計の借金(起債残高)は1200億円を超え、一般会計の借金をも上回っている。

下水道の借金(厳密には汚水分の借金)は本来、下水道使用料で返済するべきものだが、そうしようとすると使用料が著しく高額になるため、一部は税金を使って返済に充てている。こうしたことは船橋に限ったことではないが、同規模程度の他の都市では下水道建設はほぼ終わっており、あとは借金を返すだけという状況にあるのに対して、船橋はようやく普及率が半分を超えたばかりで、これから建設のための借金はさらに嵩む。このほか、病院や市場など他会計からの借金もある。

それぞれの都市によって事情は異なるため、単純な比較はできないが、こうしてみると船橋の財政は決して余裕があるとはいえない。三位一体の改革が船橋の財政にどれだけの影響を及ぼすかを見極めると同時に、市民サービスを低下させずに、いかに効率的な事業運営をしてゆくかが、これからの船橋にとってはとりわけ重要な視点になる。

17日(金)に小学校の卒業式に出席させていただきました。今回は自分の子どもの卒業ということもあって、一人の親として様々な思いが交錯する卒業式でした。元気に生まれてきてくれたときの喜び、とにかくお転婆で、ハラハラドキドキさせられた幼い頃、一緒に遊んだ想いで、たびたびの入院騒動、かまってあげられず寂しい思いをさせたこと、お母さんに叱られて泣きじゃくる君を抱き上げた夜。祝辞を書きながら、さまざま想いを巡らせるなかで、常に頭に浮かんだ言葉は「ありがとう」の一言でした。

君が生まれてきたことによって一番学ばせてもらったのは、実は親である私の方でした。そんな気持を込めて今回は以下のような言葉を贈らせてもらいました。

祝 辞

六年生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。今日、たくさんの友だちと、たくさんの思い出を作ってきた芝山東小学校を巣立ってゆく皆さんに、保護者を代表して少しだけお祝いの言葉を述べさせていただきたいと思います。

今年の冬はとても寒い冬でしたが、気がつけばいつのまにか学校の桜の木も蕾を大きく膨らませています。冬の間、何もせずに眠っているようにみえた桜の木も実は春になったらきれいな花を咲かせるために一生懸命準備をしています。皆さんもこれから人生の春を迎えようとしています。

これからが大きく伸びて、大きな花を咲かせる季節です。皆さんがこれから大きく伸びていこうとするなかでは楽しいことばかりではなく、苦しいな、やだな、逃げ出したいなと思うこともあるかもしれません。でも決して負けないで下さい。

厳しい冬に北風や雪にへこたれなかった木だけが春になって美しい花を咲かせます。自分らしい花を咲かせるため、大変なことがあっても、へこたれず、逃げずに前へ進んでいってください。

さて、今日は皆さんの卒業式であると同時に、お父さんやお母さんにとってもひとつの大きな区切りの日でもあります。

皆さんが生まれてから十二年間、お父さんやお母さんにも本当にいろんなことがありました。わたしもそうです。一緒に遊んだり、笑ったり、ときには泣いたりするなかでお父さんも色々なことを学びました。

病気で入院したときは、できることなら代わってあげたいと辛い思いもしました。忙しくてかまってあげられずに、悲しい思いをさせてしまったこともありました。

叱ったこともありました。もっとも、叱るのはほとんどお母さんの仕事でしたが、叱った後で、憎くて叱ってるんじゃない、自分のことだけじゃなくて人のことを思いやれる人になって欲しいからなんだということを分かってくれるかな、と悩みもしました。

本当にいろいろなことがあって、その度に悩みながら、いろいろなことを学んで今日の卒業式を迎えることができました。

以前、ある人が小学生に「親からかけて欲しい言葉は、どんな言葉ですか」と尋ねたところ、最も多かった答えが「よく頑張ったね」「頭いいね、さすがだね」それから「ありがとう」という言葉だったそうです。どうでしょうか、皆さんもお父さんお母さんにかけて欲しい言葉はと訊かれたら、同じような答えになるのではないでしょうか。

いつも心の中では思っているものの、面と向かって言うのはちょっぴり恥ずかしいので、この場を借りて、皆さんのお父さんお母さんを代表してこの言葉を贈りたいと思います。

「ありがとう。生まれてきてくれて、本当にありがとう。そして、これからもよろしく」

本日はご多忙中のところ、地域の代表のみなさまをはじめ、大勢の来賓のみなさまにご出席いただきました。父母と教師の会を代表致しまして心より御礼申し上げます。

また、最後になりますが、校長先生をはじめ、教職員のみなさまにも厚く御礼申し上げます。

卒業生のみなさん。たくさんの人が皆さんの成長を応援し続けていることをどうか忘れないでください。そして、これからもどんなに苦しいことがあっても負けずに、逃げずに堂々と歩んでいってください。本日はおめでとうございました。

相変わらず寒い日が続くものの、季節は着実に別れと出会い春に向かって歩みを進めています。

地元の小学校でも1ヶ月後に卒業式が予定されており、いま、子ども達にどのような言葉を贈ろうか思案しています。

昨年の今頃も同じようなことを考えていました。考えた挙げ句、昨年は以下のような言葉を贈りました。

ここで取り上げたことは、白血病と闘い続けた丹後光佑君のあまりにも短い生涯を綴った「命のアサガオ」によっていますが、そもそもこの本を紹介して下さったのは先輩の倍田賢司議員でした。倍田さんはずっと小児がん征圧のための運動に関わっており、光祐(こうすけ)君のアサガオの種を船橋にもたらしたのも倍田さんでした。倍田さんの話を聞く中で「ぜひともこの話を子ども達に語りたい。この話を通じて人生において何が大切なのかを考えてもらいたい」という思いで、小学校を巣立ってゆく子ども達に贈った言葉です。

祝  辞

六年生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。たくさんの思い出の詰まった芝山東小学校を巣立ってゆく皆さんに、保護者を代表してひとことお話をさせていただきたいと思います。

六年前、皆さんが真新しい、大きなランドセルを背負って小学校に入学したとき、どんな気持ちだったか少し思い出してみてください。これから、どんな生活がはじまるのか期待に胸を膨らませる一方で、ちょっぴり緊張もしていたのではないでしょうか。

皆さんと同じような気持ちで小学校の門をくぐった男の子の話を少しさせていただきたいと思います。

いまから十年くらい前の話です。かけっこが得意なひとりの男の子が小学校に入学しました。名前を光祐(こうすけ)君といいます。でも学校には三ヶ月しか通えませんでした。光祐君は小学校に上がる前から白血病という難しい病気と闘い続けていました。春の運動会で五十メートル走を一生懸命走りましたが、夏休み前にとても具合が悪くなり、小学校に通えなくなりました。

病院で看病するお母さんに、熱にうなされながら「お母さんごめんね。ぼく、お母さんに心配かけるために生まれてきたんかな」と言った三日後、七年間の短い命を精一杯生きた光祐君は、お父さん、お母さんに見守られながら息をひきとりました。

光祐君がいなくなって、お母さんはとても、とても悲しみました。

ある日、お母さんは庭にアサガオの花が咲いているのを見つけました。光祐君が小学校で友だちと一緒に種を蒔いたアサガオでした。花が咲くのをとても楽しみにしていたアサガオでした。しばらくして、そのアサガオにたくさんの種ができました。お母さんは思いました「このアサガオはコウちゃんからのたった一つの贈り物なんだ。コウちゃんの花を毎年咲かせよう」。お母さんはアサガオの種を次の年の春に蒔きました。たくさんのアサガオの花が咲き、たくさんの種ができました

「いのちの尊さや、光祐君のような病気を治すために必要な骨髄バンクというものを一人でも多くの人に知ってもらいたい」という思いを込めて、お母さんはアサガオの種を袋に詰めて配って歩きました。

こうして光祐君のアサガオの種は日本中に広まり、この船橋でも、たくさんの小学校で花を咲かせています。

光祐君のお母さんは、各地の小学校をまわりながら、今もこどもたちに語りかけています。

「わたしは、光祐をなくして、初めていのちの重さを知りました。だから自分のいのちを大切にして、いまを精一杯、大切に生きてくださいね。そうすれば他人にやさしくなれるんですから」

光祐君のお母さんの言葉を、きょう卒業する皆さんも、ぜひ、心に刻んで欲しいと思います。

皆さんは自分自身を花に喩えるなら、どのような花になるのでしょうか。アサガオでしょうか、ヒマワリでしょうか、それともスミレでしょうか。いろいろな花があって良いと思います。人のまねをする必要はありません。皆さんが花を咲かせ、実をつけるのはこれからです。それぞれに自分らしい花を精一杯咲かせてください。

お父さん、お母さんはもちろんのこと、地域の方々も、みんな応援しています。卒業した後も応援し続けています。みんなが応援しているということをどうか忘れないでください。

本日はご多忙中のところ、地域の代表のみなさまをはじめ、大勢の来賓のみなさまにご出席いただきました。父母と教師の会を代表致しまして心より御礼申し上げます。

また、最後になりますが、校長先生をはじめ、教職員のみなさまにも厚く御礼申し上げます。

卒業生のみなさん。これからも皆さんを応援し続けます。精一杯、たくましく歩んでいってください。本日はおめでとうございました。

本棚から童門冬二の「小説・上杉鷹山」を引っ張りだしてきて読み返した。この小説は何度読んでも飽きず、今回も一気に読み下した。ただ読み返しながら思ったことだが、読み進む中で立ち止まり、書いてあることを反芻し、あれやこれやと思いを巡らす箇所が読むたびに変ってきている。

この小説を最初に読んだのは8年ほど前、まだ議員になるまえのことだが、そのときは何気なく読み飛ばしていた箇所で立ち止まり、考えることが多かったことに我ながら驚いた。私自身の備忘録としても今回立ち止まった箇所をいくつか記録しておきたいと思う。何故か?についてのコメントは特に必要ないと思う。

例えば改革の正否を左右する要因を分析するくだり。『財政が逼迫すれば必ず改革がおこなわれる。あるいは思い切って身を削ぎ、身軽になって、新しい仕事に集中するために、古い仕事を切り捨てるというようなことがある。

そのために、組織を縮小し、人員を減らし、経費を切り詰めるというのは常套手段である。(中略)しかし、藩民のためにおこなう改革は、日々、日常業務の中でおこなわれなければならない。改革、改革と、鳴り物入りで誇大に宣伝して仰々しくおこなうことではない。

地道にコツコツとその当事者が、自分たち生活を成り立たせてくれている人々のために、誠心をもっておこなうべき日常業務のはずである。それぞれの職場において、そこの成員が、討論と合意によって案を生み、よりよい方法を、日常業務として実現していくことが、真の改革なのだ(中略)たとえ財政再建のための改革であっても、その対象となる人々への愛といたわりを欠けば、その改革は決して成功しない』

『改革は何といっても現場が軸になる。その現場がよく理解せずに、ぶすぶす燻ったまま、ただ上から押しつけただけで、仕事をさせられれば、決して納得した仕事ぶりは期待できない。不満が湧き、不平が湧き、それはいずれくすぶって火がつき、狼煙となって別な方向で炎をあげるだろう。』

そして・・・

『どんなに優れた人間にも、好事魔多しというたとえがある。まして権力は魔ものである。権力に永く馴れていると、知らないうちに人間は堕落する。(中略)改革に熱がなく、ただうまく立ちまわって立身出世を願う侍や、儲け主義だけに生きる商人から見れば、改革も単に権力者が交替しただけだ、という皮相的なできごとでしかなかった。(中略)権力とは、所詮、こういう層にとっては、暗黒面での希望を満たしてくれる力なのだ。』

昨日(6日)から市役所1階ロビーの階段周り展示スペースで「おやこくらぶ 絵楽会」主催の絵画展が17日(金)までの期間開催されています。

この絵画展は、船橋市やその近郊に住む子ども達や家族が、身の回りのものを題材にして、絵を描いたり、工作したりしたりした成果を一人でも多くの方に見ていただきたいという思いで毎年開催されているもので今年で5回目を数えます。

この活動にはハンディキャップの有無や年齢等も一切関係なく様々な方が参加しています。

私も「おやこくらぶ」発足当初から絵画展のお手伝いを側面からさせていただいていますが、毎年、特に子ども達の、のびのびした作品、色遣いの見事さ、観察眼の見事さ、構成の見事さに感嘆しています。市役所に来庁の際は、是非ともお立ち寄りください。

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展示されている作品「イチゴ」